島さんぽ 3日目後半・4日目
- 島さんぽ 1日目 (2025-04-29)
- 島さんぽ 2日目 (2025-05-08)
- 島さんぽ 3日目前半 (2025-05-18)
- 島さんぽ 3日目後半・4日目 (2025-05-26)
この旅行については今回の記事で終わりです。
3日目午後 (2025-04-21)
男木島:灯台、山頂展望台
歌を忘れたカナリア
心なしか街並みもくっきり写っている
港からの風景
再び男木島へ。晴れてるとやっぱり島感ある写真になるのでいい。
この日は島内の宿に宿泊させてもらうので荷物を置いて散策へ。
ねこ
暑いわな
木々から覗く空も海も青い
灯台(2回目)
燈臺用地
海蝕洞
灯台から浜辺に下りて東側にある洞窟。
Googleマップにピンが打たれていたのでなんとなく写真だけ撮っていたのだけど、宿に帰ってよくよく思い出すとスピンオフのコミカライズで1ヶ月前に登場したばかりの場所だった。
旅行の日程が決まってから聖地が増えることってあるんだ。
全部網羅しようとして準備していかない方がこういう偶然が起こるので面白い。もう少しちゃんと見ておいてもよかったなと思う場面も出てきてしまうけれど。
誰も見ていない 光が勝手にあふれているだけ
ちょうどいい角度を探している
山奥へ
急勾配
灯台の奥の道へ。水仙が植えられており冬に見頃を迎えるらしい。
景色が良いのだけが救い、見えるのは豊島か
運命の分かれ道
水仙を見に行くならこの辺りで引き返してもよさそう。
未整備の道が増えてくるのと展望台以外で景色のいいところがないため。
ただ水仙自体はこの先も植えられていそう
柱状節理
ヘトヘトになっている
展望台
展望台からの眺め
灯台から展望台まで30分強。
山登りやってる人とかは普通に問題ないんだろうけど、旅行3日目のオタクにはちょっと険しすぎた。
なんなら初日の時点で結構足がパンパンになっている。ケガしなかったのが奇跡。
険しすぎる帰り道1
険しすぎる帰り道2
灯台に行く途中の道にいる猫
展望台からの帰り道は未整備の部分が多くキツい。普通に足を滑らせて死にかけた。
猫は2日目で触れた周遊路の看板あたりにいる個体。
生きて戻ってきた感があって嬉しかった。
男木島:住宅地、歩く方舟
神社猫
絶景
家の猫感
蚊取り線香の缶が懐かしすぎる
灯台側から住宅地へ戻ってきたあとは夕陽と猫の家さんで休憩。ありえない値段で飲み物を提供してくれる。
島内の猫の保護活動の一環として運営されてるとのことなんで寄付とかしたいんだけど、キャットフード現物はちょっとハードルが高い。。。
足を休めたので島の東の海岸へ。
オタクの集会所だ!
浜辺
他の観光の方が多いので17時の最終フェリーの時刻まで時間をつぶすことに。
島に宿泊する人だけに許された特権という感じがして嬉しい。
突堤だか埠頭だかに出て行って
ぼーっとしたり
波打ち際を睨んだり
海水浴場の方へ行くと
脇道には
鶏の国が広がっていたり
この辺りまで来ると流石に人影はほとんどない
そろそろみんな帰ったかな
誰もいなさそう
山口啓介「歩く方舟」はおそらく男木島の中でも一番シンボリックな作品。直島の南瓜くらい人が集まっていた気がする。
ノアの方舟から着想を得た、みたいな説明だけみると訳わからんファニーな形の彫刻という印象。
公式サイトの作品一覧の感じとか、制作年(2013)とか見ると何となく問題意識が察せられてきて面白い、かも。
ケツ
夕日へ歩き出す
顔
福島県の方へ向いているらしい
絵合わせ
男木島:夕暮れの灯台
港へ
ねこ
港に戻り、マジックアワーの灯台を撮影するためにもう一度灯台へ。
先に書いたが、男木島から帰る最終フェリーが17時のため、これをするために島に泊まる必要があった。
灯台道の猫(2回目)
眩しさの中にある
向かう
沈む
歩く
灯台(3回目)
ここからは日没までずっとパシャパシャし続けた。
写真素人のため構図やら何やら全部めちゃくちゃだし、色とかの調整もしてないんだけど一応残しておく。露出とかに苦しんでいる様子をご笑覧ください。
一応このためにiPhone新調したのに全然使いこなせていない。。。
とりあえず見返しててレンズフレア(ゴースト?)は消しておきたいなと思った。
ゲーム中だと何度も廃灯台と紹介されるのですっかりその認識になってしまっていたが、実際には稼働している。
これも実際に来て夜に見なければわからなかったところ。
それではまた
帰り道の夕日もまた絶景
猫(3回目)
男木島:夜
港が見えてきた
一日を終えて停泊しているめおん、めおん2
夜の「男木島の魂」
灯台を撮っているときは全くそんな気配はなかったのだけど、誰もいない港に着いて照らされている船と海の向こうの街の明かりを見たときに一気に涙腺に来てしまった。
プレイ中の記憶が全部蘇ってきて、主人公と自分の視界が重なり合う感覚。
路地を抜けて
宿へ
宿泊したのは ogijimaゆくる さん。宿全体で2部屋・定員7名とのことだったので2組での宿泊だとばっかり思っていたのだけど、まさかの一棟貸し。
オタク2人で宿泊するにはちょっともったいなすぎる素敵な宿でした。
使わなかった和室
中庭で……
バーベキュー!
〆の焼きおむすび
大変美味しかったです。鶏肉のグリルとか、アスパラ(さぬきのめざめ)のホイルバター焼きとか。
お茶も美味しすぎて「水出し台湾茶か……?」みたいな独り言を一生言ってた(迷惑客)。たぶん市販なんだけど水出しではあったと思う。
あとオタクに理解があるのか何なのか女将さんが「皆さん音楽とかかけてますよ」とか言ってくださったので、遠慮なく持ってきたスピーカーでサントラ流したりしてた。楽しかった~(楽しかったのコーナー)
食べ終わってからも女将さんや番頭さんとしばらく歓談して、いつの間にかいい感じの時間に。
腹ごなしに少し散策することにした。
再び神社へ
街の明かりが良く見える
来てみたはいいものの、流石に夜景を綺麗に撮る能力はなかった。
豊玉姫神社の階段は急な上に不揃いで危ない。早々に帰って入浴した。
4日目 (2025-04-22)
0時にABEMAで配信されるSummer Pockets 3話を視聴。
その日に見てきた風景が画面の中にあるのはちょっとした感動があった。
男木島:最終日
あさ
ごはん
ツイートした通り、オタクなのにまともな朝ごはんを食べてすみませんという気持ち。
この日初めて男木島に来る便
眺めながら朝食を食べている贅沢
撮っていないが、窓の下の路地を見ると瀬戸芸のボランティアさんが持ち場に赴く様子も見れた。
食後のお茶なんかを飲んだ後、11時のフェリーまで時間があったので同行者と別行動することに。
後から聞くとアニメ3話で映った場所を撮りに行ってたらしく、その手があったかと思わず膝を打った。
街へ飛び出せピーポーピーポー
狭い路地を抜け
見慣れた道
見慣れた猫(4回目)
木々が晴れて
果たして変わらずそこにあった
何度見ても同じはずなんだけど、歩いて通うことに意味がある気がした。
砂浜がもう少し綺麗だったらいいな
見慣れた角度
意外と正面からは撮ってなかったか
流石に3日間で4往復目ともなると行き来にも慣れてきた。港から灯台まで、急ぐとだいたい片道20分切れるかどうかくらい。
フェリーに間に合うように早めに引き返す。
近づいてくるのは
猫(5回目)
めちゃくちゃ甘えてくる
動物はかなり嫌いで普段から避けているのだけど、ここまでされたら仕方ない、と思って普通に撫でてしまった。触ったの本当に小学生振りとかなんじゃないだろうか。
この旅の中で自分と島との間に出来た縁のことを思いながら帰路に就いた。
初めてなのにどこか懐かしいその島から
おわりに:言葉と旋律と記憶のコラージュ
今回の旅にあまり関係のないことも含めて長々と書いているので閉じるなり最後だけ読むなりしてください。
自分は自分の中の感動を伝える術に乏しくて、何かの引用とか似たものを引っ張り出してきて、これと同じような感動があったという提示の仕方しかできない。
ゲームの方の感想記事はそういう意図で自分の好きな作家や作品からいくつか引いてきていた。
こういうオタク的な文章を書くにあたっては作る: アマガミSSテレビという記事に多大な影響を受けている。
自分はアマガミを知らなかったのだけど、この文章の中で引用されている池澤夏樹「ローラ・ビーチ」については知っていて、その引用の効果にいたく感動した覚えがある。
あまりに憧れすぎて本当は感想記事の方でもまんまローラ・ビーチの同じ部分を引用しようとしていたのは秘密だ。
けれどその感動は結局その引用元を知っている人にしか理解してもらえない。
アマガミSSテレビの人はそもそもエピグラフのように単発で引用を用いており、そのデメリットはほとんど感じられない。
知っている作品を全部引っ張り出してきて全部理解してもらおうなどという幼稚なことをしているのは自分だけだ。
引用部分単体で読んで「おっ、なんかそれっぽいな」とはなるかもしれないが、その程度が関の山だろう。
そんな文章は作品としては優れていないだろうけど、一方自分の記録としては適しているのではないかとも思う。
ある経験Aをした人もある経験Bをした人も一定数いるだろうが、AもBも経験した人の数は必然的に少なくなる。共通部分が狭くなるほど作品性は落ちて記録性は高まっていく。
今の自分の問題意識は「自分をどうやって残すか」というところにあるのだけど、
自分を切り貼りした文章に、ちりばめられた言葉と言葉の間に、自分が立ち現れるのではないか。そういう気持ちでこの文章を書いている。
自分が詩に親しむきっかけになったのは合唱だ。学生時代、大学の授業そっちのけで歌っている時期があった。
特に谷川俊太郎の詩については数多く歌ってきたし、本人の前で演奏する機会にも恵まれた。
万人に刺さるけど陳腐だったりポピュリズム的ではない、普遍的な魅力があるように思う。
多くの合唱作品は、既に詩人が発表した作品に作曲家が後から音をつけるという順番でつくられる。
そのとき作曲家には、詩をどう取り扱うかについて大きな裁量が委ねられる。
時には省略をしたり、時には順番を入れ替えて反復したり、時には別の詩と別の詩を組み合わせたり。
テキストに音をつけるだけでなく、テキスト自体の解体・再構成をも行っている。
コラージュ、とまで言えるような例は少ないけれど、合唱曲にそういう側面があるのは事実。
自分の詩の楽しみ方の根底にもそのスタンスが根付いていているような気がする。
詩全体を解釈するときもあれば、一部分を取り出してきてある場面に当てはめてみることもある。
どうして聖地巡礼をしなかったのか。
根本的には他人と同じことをしても意味がないと感じる性分ゆえだ。
そういう意味ではアニメ云々に関わらず観光地巡りというものがそもそも得意ではない。
1日目の最初に書いた文章からも滲み出ているが、どうも自分は何かを「しない」ということにアイデンティティを見出している節がある。
思い返してみると、育ってきた時分に身の回りで叫ばれていた言葉が原因なのではないかと思う。
それは「自分探し」「何者かになりたい」「ここではないどこかへ」という類のスローガンだ。
こうした態度への冷笑が呪いになっているところが多分にある。この単語自体ももう膾炙しすぎて使うのは恥ずかしいのだけど。
さて、実際に行ってみると、作品を体験した後にその場所を訪れて「知っている」という感覚になるのは良さがあった。
結局それはどのくらい作品と場所が強く結びついているか、どのくらい作品にのめり込んでいるか・作品がのめり込ませてくれるかに依存する部分だと思う。
単に印象的なシーンのロケ地というだけでは自分にとっては不十分だと感じるのだが、やはりSummer Pocketsについてはこのハードルを軽く飛び越えていた。
実感を言葉に変換するときにどうしてもロスがあって、例えば「今が一番若いのだから今すぐ挑戦するべき」なんて言説は加齢をもってしか理解しえない。
旅行の記録も、文章の巧拙や面白さの程度の違いはあれど、「読んでその場所に行ったかのような体験をする」というのは本質的にはありえない。
(これは久島鴎ルートに関するこれまで書いてきた考えの転換でもある)
結局のところ、“ほんとう”っぽい物事を言葉で表そうとするとどうしても陳腐になってしまうんだと思う。つまり、体験は言葉に勝る。
「言葉と音の違い」は、優れた文章家にとっては些細かもしれないが、存在しないわけではない。
どうして自分は聖地巡礼をするのか、と言われたら改めてこう答えたい。
その場所の記憶を自分のものにしたいから、だと。
詩を一節引用して終わりにしたいと思う(ここまでの長ったらしい文章はこの引用を正当化するためだと気付いていましたか?)。
この作品に三善晃が付曲した合唱曲も、何度も聴いて耳に焼き付いて離れない旋律のひとつ。
興味が向いたら聴いてみてほしい。(演奏動画へのリンク)
ここでただいまを言い続けよう
おまえがお帰りなさいをくり返す間ここへ何度でも帰って来よう
ここで熱いお茶を飲もうここで一緒に坐ってしばらくの間
涼しい風に吹かれよう——谷川俊太郎「地球へのピクニック」
この詩がこの旅の全部だった。
そう言いたいし、言えるようにしたい。